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――以下は、王国歴史院に保管されている古文書『魔王戦記』からの抜粋である。
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この世界には、「人族」と「魔族」という二つの大きな勢力が存在する。
魔族は幾度となく人族の領土を侵し、人族はそれに抗い続けてきた。
長き戦いの果てに、人族はひとつの結論に至る。
――平和な世界を築くには、魔族の王を討つほかない。
王の命により、一万の兵が魔王城へと進軍した。
だが、城に近づいた途端、空は黒雲に覆われた。
激しい雨が大地を叩き、川は氾濫し、洪水が兵の足元をさらった。
立つことすら許さぬ暴風が吹き荒れ、稲妻が城壁の前の大地を裂いた。
一万の軍勢は、一歩も進めぬまま撤退を余儀なくされた。
兵を二万に増やした二度目の進軍も、結果は同じであった。
五年の歳月をかけた調査の末、この地が本来、災害の起こりにくい土地であることが判明する。
にもかかわらず、軍が近づくたびに嵐が発生する。
三度目の進軍。精鋭五万の大軍をもってしても、天は味方しなかった。
人族は、ついに悟った。
――魔王は、天候を操っている。
いかなる大軍を送ろうとも、天そのものが敵となる。
正面からの突破は、不可能である。
こうして人族は、戦い方を根本から改めた。
大軍ではなく、少数精鋭による魔王討伐。
嵐の目をかいくぐり、城に辿り着ける者。
それはもはや軍ではなく――「勇者」と呼ぶべき存在であった。
以降、人々は救世主の出現を待ち望んだ。
勇者こそが世界を救う者。
勇者が魔王を討つとき、この世界に真の平和が訪れる、と。
そして――ついに、勇者は現れた。
世界最強と謳われたその一行は、地の果てに住まう「神」と出会い、
魔王を滅ぼしうる伝説の武器を授かったという。
知らせは瞬く間に世界中へ広がり、人々は熱狂した。
王は勇者一行に、正式なる魔王討伐の命を下した。
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――『魔王戦記』第七巻「勇者の章」序文より
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私たちは、魔王城へと続く坂道を登っている。
道は整備されており通りやすい。
魔族や魔物が襲ってくる気配はない。
魔族の王が住む「魔王城」が目の前だというのに。
立ち止まり、後ろを振り返ると、
私たちが先ほどまでいた小さな村が見える。
煙突から白い煙がのぼっている。
洗濯物が風に揺れている。
子供の笑い声が、ここまでかすかに届く気がした。
――世界を恐怖に陥れる魔王城がこんなに近くにあるというのに。
「こうして見ると、不思議な光景だな」
立ち止まり、村を眺める私を見て、シュート君がそう言った。
「さっきまでいた村があんなに小さくなってる」
サクヤちゃんも振り返り、一緒に村を見る。
「・・・・・そうだね」
私たちは3人のパーティーだ。
前衛を務める剣士の「シュート君」。
後衛から強力な魔法を放つ魔法使いの「サクヤちゃん」。
そして弓と回復魔法が使える私、「モコ」。
――みんなには「モコモコ」と呼ばれている。
でも、どうしてモコモコなんだろう?
みんなに聞いたことはあるけど、納得のいく答えをもらえたことはない。
私たち三人は、世界で最も恐れられている魔王を倒すためここまでやってきた。
そして、その魔王は目の前の魔王城にいる。
でも……私たちは疑問だらけだ。
私たちが考えていた魔王像とはかけ離れていることが度々起こるからだ。
今、目の前に広がっているこの光景もそうだ。
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「……にしても、たった三人で魔王城に乗り込むなんて、正気じゃないよね」
サクヤちゃんが、わざと明るい声で言った。自分で言って、自分で苦笑している。
「仕方ないだろ。大軍じゃ近づくことすらできなかったんだから」
シュート君が淡々と答えた。
確かに、空は穏やかだった。薄い雲が流れているだけで、嵐の気配はどこにもない。
――でも、それは本当に「気づかれていない」からなのだろうか。
その疑問を、私は口にしなかった。
私はまだ、あの村でのやりとりを消化しきれていなかった。
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村に足を踏み入れたとき、最初に感じたのは敵意だった。
村人たちが集まってくる。表情は硬い。目つきは鋭い。歓迎とはほど遠い空気が、まとわりつくように広がった。
「何の用だい、お前さんがた」
白髪の老人が、杖をつきながら前に出た。声は穏やかだったけれど、その奥に釘のような硬さがあった。
「俺たちは魔王を倒しに来ました」
シュート君が真っすぐに言った。嘘のつけない人だ。
「この村は魔王城に近い。どういう状況なのか知りたくて」
老人は一瞬だけ目を閉じ、それから、疲れたように肩を落とした。
「……またか」
その「また」という一言が、私の足元を揺らした。
私たちの前にも、同じことを言いに来た者がいたのだ。きっと何人も。何十人も。
「見ての通り、この村は平和にやっとる。救ってもらわにゃならんことなど、何もありゃせんよ」
「ですが、あんな近くに魔王城が――王様からは、この村は魔王に支配されていると」
シュート君の言葉が終わるか終わらないかのうちに、空気が変わった。
老人だけではない。周囲の村人たち全員の顔が、一斉に険しくなった。
「支配、だと?」
老人の声が低くなる。
「確かに、ワシらは魔王様に税を納めとる」
「やはり――」
「違う」
老人は杖の先で地面を叩いた。乾いた音が、村の広場に響いた。
「ワシらは望んで納めておるんじゃ」
シュート君が黙った。私も、サクヤちゃんも。
「お前さんは王国から来たんじゃろう。王がどれだけ民から搾り取っておるか、知っておるか? 稼ぎの半分じゃ。半分を持っていって、何をしてくれる? 何もせん。城の中で肥え太るだけじゃ」
反論しようとしたシュート君を、老人の言葉が遮る。
「魔族から守っておる、と王は言うじゃろう。そうじゃな、それを口実に税を取る。だが、この村はどうじゃ?」
老人は魔王城を指さした。崖の上に、灰色の城壁が空を切り取っている。
「魔王様はワシらから何も取らん。ワシの爺様の代から、この村の建物を整え、水路を引き、住みよい場所にしてくださったのは魔王様じゃ。魔族も魔物も、この土地では誰も襲わん。あの方がおるからじゃ」
老人は、穏やかに、だがはっきりとした声で言った。
「あの方こそ、この世界の王にふさわしいお方じゃよ」
私たちは、何も言えなかった。
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「……なんだか、私たちが悪者みたいだったね」
坂道に戻ってから、サクヤちゃんが苦笑交じりに言った。
「ああ」
シュート君の返事は短かった。けれど、その短さの中に、飲み込んだ言葉の重さが透けて見えた。
しばらく、三人とも黙って歩いた。靴が砂利を踏む音だけが、やけに大きく聞こえた。
「――だけどな」
シュート君が口を開く。
「俺たちは世界中を旅してきた。魔族が何をしてきたか、この目で見てきた。焼かれた村。転がった死体。女も子供も老人も関係なかった」
その声に、感情はなかった。感情を抜きにしなければ、語れない記憶なのだと思った。
「その魔族の頂点に立つのが、魔王だ」
「ここの人たちだけが特別扱いされている、ってことかもしれないね」
サクヤちゃんがそう言って、私を見た。
「モコモコちゃんは、どう思う?」
ずっと黙っていた私に、その問いが向けられる。
「え? 私は……」
言葉が出なかった。
正確に言えば、自分の中にある感覚を、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
魔王城に近づくにつれて、胸の奥が騒ぐ。不安とも、恐れとも違う。もっと深いところで、何かが共鳴しているような――そんな、奇妙な感覚。
「体調が悪い? それなら日を改めて――」
「ううん、違うの。大丈夫」
「本当に?」
サクヤちゃんの目が、じっと私を見ている。心配と、ほんの少しの疑念が混じった目。
「うん。ちょっと緊張しちゃっただけ」
嘘、ではない。でも、本当でもない。
自分でもわからないものを、正直に言えるはずがなかった。
「……ならいいけど」
サクヤちゃんはそれ以上は聞かなかった。
私の嘘に気づいていないわけがない。ただ、今はそれを追及する場面ではないと判断したのだろう。優しくて、賢い人だ。
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「どのみち、今回は魔王を倒すつもりはない」
シュート君が、前を向いたまま言った。
「まずは、どういう奴なのかを確かめる。距離を保って戦い、強さを測る。危ないと思ったら即撤退だ」
「三千年以上生きてる魔王だもんね」
「他にどんな手札を持ってるかもわからない。俺たちより強いのは間違いない。だから、生きて帰ることが一番大事だ」
シュート君はいつもこうだ。冷静で、正確で、感情に流されない。この人の判断に任せていれば、少なくとも最悪の結果にはならない。ずっとそう信じてきたし、今もそう信じている。
「私とサクヤちゃんが弓と魔法で援護するから、無理に前に出すぎないでね」
「うんうん。そうそう」
「わかってる。盾で守る。危なくなったら、二人とも俺の後ろに回れ」
シュート君がそう言って、笑った。
いつもの笑い方だった。余裕があるわけではない。ただ、不安を見せない笑い方。それが彼なりの優しさだと、私は知っている。
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魔王城の扉は、思っていたよりも静かだった。
禍々しい装飾があるわけでもない。血のような赤に塗られているわけでもない。ただ、古い石と鉄でできた、巨大な扉がそこにあった。
風が止んでいた。
さっきまで頬を撫でていた潮風が、ぴたりと消えている。鳥の声もない。虫の音もない。世界そのものが息を潜めたような、異様な静寂。
私は弓を握る手に力を込めた。
指先が、わずかに震えている。
――怖いのだろうか。
いや、違う。これは恐怖じゃない。
胸の奥の、あの感覚が、ますます強くなっている。
まるで、この扉の向こうにいる誰かが、私を呼んでいるかのような――。
「行くぞ」
シュート君が、短く言った。
私たちは、扉に手をかけた。